今、自分は鹿児島ユナイテッドFCのサポーターだとは思っていない。
今シーズンは1度もリーグ戦に行っていないし、ファンクラブも入らず、ユニを始めとしたグッズも買っていない。
だからこの記事は「鹿児島ユナイテッドFCサポーター」ではなく、「ヴォルカ鹿児島サポーター」として書く。
最初に彼の事を知ったのは2006年度の高校選手権だった。
八千代高校の一員として選手権に出場し、乾擁する野洲を下す等してベスト4まで勝ち進んでいた。
準決勝の盛岡商業戦、彼は高いパフォーマンスを見せていた。「八千代のGKいいな」と思いながらTVで見ていた。
スコアレスで迎えた終盤、試合が動く。
盛岡商業の右サイドからのコーナーキック。これを痛恨のパンチングミス。自分の足に当たってゴールに吸いこまれた。
これが決勝点となり、八千代は準決勝で敗れる。
このシーンは高校選手権の象徴的な出来事として何度かTVでも取り上げられていた。
その特集の1つで彼が岡山のIPU・環太平洋大へ進学した事を知った。
IPU・環太平洋大ではデンソーチャレンジカップの中国・四国大学選抜に選ばれたり、総理大臣杯に出場したり、岡山県代表として天皇杯に出場する等、高校・大学を通じて全国大会の経験を得る。
2011年、他所のクラブの動向を見ていた時に福島ユナイテッドFC加入のリリースを偶然目にする。
「あの時の八千代のGKは福島に行ったのか」という認識でしかなかったが、アミティエ主催の合同セレクションで一番環境の良かった福島ユナイテッドFCを選択したらしい。
ところがこの年、東日本大震災により東北リーグの再開の目途が立たず、時間を無駄にしたくなかった彼はチームを去る決断をする。
合同セレクションで声をかけていたヴォルカ鹿児島に移籍した。

ヴォルカデビューは5/15(日)の九州総合スポーツカレッジ戦。この試合から不動の守護神としてヴォルカを最後尾を支えた。
印象に残っているのは第10節の海邦銀行SC戦@沖縄。勝点3が必須の試合ではあったが、得点を奪うことが出来ず、スコアレスでPKとなってしまう。
この時のヴォルカはPKの上手い選手が失敗する等、嫌な雰囲気だったが、それを吹き飛ばすPKストップを魅せた。
勝点のロストは痛かったが、それを忘れさせる活躍をした。
しかし、ピッチでの結果が出せなかったのは勿論、FC KAGOSHIMAとの合併案が出る等、ピッチ内外で様々な出来事が起きた。
そんな中で「生活が苦しい」、「鹿児島に来て下手になっている」等のツィートを目にし、何だか申し訳なさを感じたものである。

2012年はクラブスタッフとして働きながらこの年も不動の守護神として君臨した。
リーグ第9節のFC KAGOSHIMA戦に勝利し、そこで首位に立つと、天皇杯2回戦で浦和レッズと対戦し、順当に進んでいたが、後期リーグになるにつれ、攻撃の質が低下し、勝ちを重ねる一方で内容が悪くなってきていた。
そんな中で第16節の新日鐵大分に敗れ首位陥落。
優勝決定戦となったFC KAGOSHIMA戦、全国社会人選手権で失点に直結するミスをし、このシーズンもポジティブなものではなかった。
加えて、合併案が泥沼と化し、チームに嫌気がして退団するのではないかと不安に感じたものだ。

2013年、退団も覚悟していた中でチームに残ってくれた。
リーグ第9節のFC KAGOSHIMA戦では決定的なピンチをファインセーブで防ぎ、首位浮上に貢献。
その後、沖縄で行われたリーグ第14節の海邦銀行SC戦、PKまで縺れた苦しい試合だったが、この時は特に神がかっていた。
先攻のヴォルカがPKを失敗すると、その次の海銀の選手のPKを尽くストップ。特に5人目、6人目でヴォルカの選手がPKを失敗し、後がない状況で見事ストップ。勝利に貢献した。
チームはリーグ優勝をし、地域決勝では1次ラウンド最終戦、FC大阪に勝利し、撤収作業をしている時に試合を観ていた少年団の子供たちが「ヴォルカのGK上手かったね」と言っていたのが印象的だった。
ハイボールの処理が安定し、フィンセーブも見せて勝利に貢献した。
決勝ラウンドでは4位となり、自力でのJFL昇格を掴む事は出来なかったが、FC KAGOSHIMAが3位になった事でまた、統合も決まり、新シーズンをJFLで迎える事が出来た。

2014年、鹿児島ユナイテッドFCとなった中でも正GKとしてゴールマウスを守った。
コンスタントに安定したプレーで1stステージのMOMとも言える質の高いプレーを魅せた。初めてのJFLだったが自信を持ってプレーしているように見えた。
しかし、1stステージを終え、鹿児島県サッカー選手権(天皇杯予選)、天皇杯本選の4試合中、本選1回戦の徳島市立高校戦のみの出場となり、残りの3試合を武田大にスタメンの座を明け渡した。
鹿屋体大戦や徳島ヴォルティス戦も起用されず、ここで序列が変わったのかと思われたが、2ndステージ開幕戦ではスタメンに戻る。
1stステージから2ndステージ開幕までの間、一番力が劣ると思われる徳島私立高校戦しか出ていない事が試合勘の欠如、または試合に挑むに当たりモチベーションの持って行き方が難しかったのか、ホーム・レノファ山口戦ではビルドアップミスから失点に絡み、次節のファジアーノ岡山ネクスト戦以降はサブに降格した。
1stステージ最終戦のMIOびわこ滋賀戦の次の鹿屋体育大学戦や天皇杯の徳島ヴォルティス戦にも出ていれば、1stステージの良い感覚を残したまま挑めた可能性もあっただけに、あの時期の起用法が悪い方向へのターニングポイントになったのではないかと思われる。

2015年、監督が浅野さんに代わるも引き続き正GKは武田だった。
開幕前のトレーニングマッチでの起用法から察するに浅野さんはプレースタイル的に武田よりも彼を起用したかったのではないかと伺える。
しかし、人伝で聞いた話ではあるが、「怪我はしてないけど調子が上向かない」との事で、結局、武田にスタメンを明け渡した。
武田も不安定なプレーが目立ち、時々スタメンに抜擢されてはいたが、そこでチャンスを掴む事が出来なかった。
姶良で行われたFC大阪戦ではPKのピンチを防ぎ、勝利に貢献した。しかし、次節のHonda FC戦ではビルドアップミスから失点に直結するプレーをして次のヴァンラーレ八戸戦はサブに降格する。
浅野さんはGKのプレーに不満があると代える傾向にあったが、奄美開催のSP京都戦では、3失点目は武田のミスから生まれた失点だったにも関わらず、次の流経大ドラゴンズ竜ケ崎戦以降もそのまま武田を起用。
皮肉にも、チームの調子が上向き、武田も安定したプレーをする事でJ3参入に貢献した。

2016年は初旬のニューイヤーカップでは初戦こそ出場するも、2戦目、3戦目は出番がなかった。
この年はSP京都から加入した山岡が不動の守護神となり、サブに入るかを武田を争う形となった。
シーズン中盤は武田がサブに入ってたが、序盤と終盤はサブに入り、ホーム最終戦のグルージャ盛岡戦でJ3デビューを果たす。
ただ、失点に直結するミスもあり、悔いのない試合が出来たかは気になった。
九州リーグからJFLへ舞台を移し、九州リーグでは出来ていたプレーがJFLでは出来なくなっていた部分もあった。
例えば、JFLで2試合ビルドアップミスで失点に絡んでいたが、九州リーグで観ていた時はそういうプレーにも長けた選手というイメージがあった。
また、ハイボールの処理に関しても、JFLではキャッチングして攻撃をシャットアウトするプレーが減り、パンチングをする機会が多く見られていた。
カテゴリーが変わる中で、今まで出来ていたプレーが出来なくなるという事はポジション争いで後手になるのは仕方がないのか。

2017年は菜入の加入もあり、サブに入る事も出来なかった。
菜入がホーム栃木戦で5失点をし、うち3失点が菜入のミスから生まれたが、その次の試合では菜入は懲罰なのか、サブからも漏れた。
その時にサブ入りしたのは岩崎知瑳。
その後、山岡が失点に直結するミスをした後、今度は山岡がサブからも漏れてスタメンが菜入、サブが岩崎という事で序列は4番手。
真っ先に契約満了のリリースが出ても仕方のない成績だった。
ただ、一個人の意見だが、この飼い殺し状態は納得がいかない。
今年、Jリーグの特別指定選手に承認された選手にはGKが多かった。
いくつかの例で共通する事は、既存のGKに怪我人が出ていた点。特指の他にもGKコーチが選手登録している例もあった。
GKに不測の事態が起きた場合、ウィンドーとは関係なく移籍が可能であるため、春先に怪我人が相次いだFC琉球や秋にGKコーチを急遽選手登録した上で九州産業大学の加藤を特指にしたレノファ山口へのレンタルという選択肢はなかったのか。
国体にユナイテッドの選手が数名選出されていたが、GK2人が鹿屋多大の選手だった。このメンバーも1人はユナイテッドのGKから選んでも良かったのではないか。
どこかで試合に絡めるチャンスはあったのに、クラブがそれをしなかった。(ように見える)
GKのコーチングの質という点で彼から学ぶ事は多かった。
観衆の少ないヴォルカの試合だから気付いた事であったが、彼のコーチングで特徴的なのは味方選手がボールを保持している時に死角からプレスが来た時も、ただ「来てる」と言うだけでなく、具体的にプレーの指示を出し、味方を慌てさせない一言を付け加えていた。
自陣で相手選手からプレスがあった時も「大丈夫」と一言付け加え、実際にロストする事無く円滑にプレーが出来る体制を作っていた。
丁寧にファンサをする姿勢に人気も高かった。
ヴォルカの時は見知らぬ練習生がいた時に「あれ誰?」と聞いた事もあった。嫌な顔せずにきちんと答えてくれてたけど、あれは鬱陶しかっただろうなぁ。
また、母君にはいろいろと迷惑を被りました。
去年のアウェイ・琉球戦で体調不良で出れなかった山岡の代わりが武田だった事でぶつぶつ文句を言ってた時は本気でシバこうかと思いました。
いろいろ面白かったですよ。東京全社(2012)で負けた時は「(息子を)島に流せ」と怒ってたり、長崎全社(2013)の八戸戦では、延長後半アディショナルタイムに決勝点決めて勝った時はあまりの喜びっぷりに選手から「落ち着け」って言われたり。
鹿児島に来て7シーズン。この7シーズンは山あり谷ありで心が折れて引退してもおかしくない時期もあっただろう。
トライアウトに参加したという事はまだ続ける意思があるという事。
新天地が見つかれば、鹿児島でのタフな経験はきっと活かせる。
現役を続けるならきっとどこかでプレーは観れるからさよならは言わない。

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